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Ai_Tkgk's Soliloquy

音楽やカルチャーについて、気になることを気ままに書いています。

RADWIPS「五月の蠅」から考える

邦楽

来週16日に発売されるRADWIPSの新曲「五月の蠅」の歌詞が話題になってる。

ということで、早速読んでみたんだけど、なかなかにエッジが利いてるなぁ、と。

ネットでは、野田洋次郎が失恋した(振られた)ので、その恨みから作られた曲では?って意見が多いみたいだけど、僕はあまりそうは思えない(事実、RADWIMPS4ってアルバムは、それまでの楽曲の主役だったカノジョとの別れを踏まえて作られているけど、ここまでの楽曲は全く存在していないし)。

僕としては、RADWIMPSの最高傑作は、疑いようもないくらい「絶体絶命」だと思ってる。そして、彼らが発表するここ数作品を聴いていて感じるのは、彼らは、多くのファンが持っている自分たちのパブリックイメージ(=野田君の書く歌詞の登場人物を自分に置き換えることで、絵に描いたような理想の恋愛の主役になるという擬似的な満足感を与えてくれるバンド)からそろそろ脱却したがっているんじゃないかということ。

言い換えれば、主に10代〜20代の女子が「カレシからこんな風に想われたい!愛されたい!」とか、男子が「こんな風に思えるカノジョと出会いたい!」と自己投影し易いがために幅広い層から受け入れられ、チャート上位常連の「みんなが大好きな国民的バンド」から自ら降りようと思っているのではないかと。

現に僕の周りの「RADWIMPS大好き!」って人は、若い人ほど絶体絶命の評価はあまり高くない。楽曲的に見れば、演奏技術は格段に上がってるし、カントリーや聖歌的なアレンジ等、音楽的にも様々なアプローチをしているのにも関わらずだ。(でも、「4645」や「ます。」直系の「君と羊と青」のように、これまでのファンに応えるための楽曲も入ってる)。

多分それはこれまでのアルバムの中で大半を占めていた、周囲と盛り上がれるメロディやノリのある曲が減っただけでなく、みんなが期待している「恋愛」を歌った曲が少ないからだ。野田洋次郎は、「アルトコロニーの定理」の頃から、「おしゃかしゃま」「オーダーメイド」をはじめとして、宗教的観念や(恋愛を挟まない)死生観について書き始めていた。その後は、「マニフェスト」や「携帯電話」のように、一見して恋愛について歌っているようで社会風刺を孕んだ曲が増えている。極め付けはあえてシングルカットされた「狭心症」。

(これはMVも含めて一つの作品だと思う)全編を通して、世界に蔓延るいじめや痛み、差別についてしか歌っていないうえに、結論として光を示しきれていない。現実を直視しないことを選択しながらも、そんな自分に嫌悪感を示して終わる。自己投影し、自らが楽曲の主人公になることで曲の良さを噛みしめる、これまでの「RADWIMPSらしさ」を楽しむことはできない。

理想的な恋愛のバイブルを言語化してくれるRADWIMPSはそこにいないわけだから、とても裏切られた気持ちになった人も少なくないはず。「絶体絶命」の発売日が震災直前だったこと、タイトルをはじめとしてアルバム全体の世界観が震災以降との繋がりを感じずにはいられないことから、あのアルバムは3.11との繋がりばかり関連づけられて論じられていることがとてももったいないし、残念。

野田君と僕、ほぼ同世代。だから、失礼承知で共感できる部分がある。

10代後半から20代半ばまでって「目の前にある大切なもの=恋愛」について語ってることで自分を表現できたし、納得させられた。でも、年をとって多くの経験をすることで、様々なことを考えるようになるし、自己表現の中心が半径片手メートルの事柄を超えたもの(例えば、政治、哲学)にシフトしていくことも往々にしてある。

でも、あの時点での彼は、政治も宗教も差別もそのまま語れないのよ。語ってもそもそもファンには受け取ってもらえないし、届けたいところに届けられない。だって、RADWIMPSのパブリックイメージがあまりにも強すぎるんだから。理想の恋愛を言葉にすることで共感の輪を広げ、スタジアムバンドになったっていうイメージが。10代の子がクラスでRADWIMPSを薦める時、おそらく大半が「歌詞がいいんだよ!カレシ(カノジョ)と聞きたいし、こんな相手を見つけたい!」であるはず。そういうイメージ。

だから恋愛よりも社会性が強いことは歌いづらいうえにあまり期待されていないし、土壌も出来てない。一回その土壌をぶっ壊す必要があったんでしょう。「俺らはもう共感を生む恋愛の歌だけ歌って好かれてたいだけじゃないんだ」と。それがオーダーメイドやおしゃかしゃまから始まって狭心症、アルバムとしての絶体絶命の流れだと。

そう思うと僕にとっては彼らの一連の流れが自然に見えてくる、で、多分、彼らはまだその破壊を終えてないんだと自己認識をしてる。だから、今度はこれまでの絶対的守備範囲だった「恋愛」というフィールドで破壊活動を挑んできた。「俺たちは恋愛の聖人君子じゃねえぞ。こんなどす黒いことだって考える、大人なんだぞ。それも含めて恋愛なんだぞ」と。

それが僕の「五月の蝿」についての考察です。

これでまだ壊せなければ彼らはまだまだいろんな方向で壊しにくるはず。野田君は天才。ゆえに単に感覚に任せて表現するだけでは物足らず、必ず届けたい土壌を作ってから届けにくるはずだから。

バンプの藤君の素晴らしさは、彼のピーターパン性だと思う。どんなに汚れてもその奥にある少年性とピュアネスで歌を作るから、そこにみんなが14歳の自分を投影できる。でも、野田君はピーターパンではない。目の前の事柄1つ1つで汚れもするし、輝きもする。実に人間臭い表現者だと思う。それゆえ、魅力的だ。だから、この2人は、単にロキノン系のみだけでなく、幅広い層から支持されるバンドを動かし続けられるのだと思う。よく藤君と野田君は同じ軸で語られるけど、個人的には全く同意できないし、ナンセンスに思うんだよなぁ。

発売までもう少し。このRADWIMPSRADWIMPSであることを壊しに行く新曲、どのように受け入れられるのか、とても楽しみだ。